はじめまして!
國友みゆきと申します
普段は難病の子の心のサポーターとして、親御さんや子どもたちのサポート、オンライン講座・ワークショップ等の開催をさせてもらっておりますが、私自身も、難病の子を二人育てている母親です^^
だから、皆さんとは同士だし、戦友だし、仲間って思ってもらえると嬉しいです♬
ところで、このサイトを訪れてくださった、ということは、ご家族や大切な方、もしくはご自身が難病をお持ちなのかな…と拝察しております。
もし、そうなのだとしたら、病気のことを知らされてからこれまでの間にも、想像をこえるような体験をされてきたんじゃないでしょうか。
いいことも、悪いことも、いろんな瞬間があったと思うんですけど、とても一言では語れない体験ですよね。
私自身もそうでした。
だけど、そんな数々の体験をとおして、いつしか絶対に譲れない、こんな思いも自分の中に湧き上がってきたんです。
「絶対にあきらめたくない!」って。
子どもの未来も、自分の未来も。
そして、今、難病と歩む子どもたちや、ご家族の未来も。
私は絶対にあきらめたくないんです。
たとえあなたがあきらめても、私はあなた以上にあなたの未来を信じる。
そんな思いが、いつか病気とともに生きる子や、そのご家族に届くようにと、このサイトを作りました。
私の自己紹介にかえて、これまでのストーリーを以下にまとめてみました^^
過去どんな体験があったとしても、少しのきっかけがあれば、未来にスポットライトを当てて、前向きになれるんだよってことを感じてもらえたら嬉しいです♬
【子ども時代】家族の悩みから、すぐあきらめる子に
私は両親、妹・弟がいる5人家族の長女として育ちました。
父と母はお見合い結婚だったそうです(当時の主流ですね!)
結婚も間近という頃、父は交通事故で頭蓋骨が陥没するほどの大怪我をして、それ以来ギャンブルにのめりこむようになってしまいました。
いわゆるギャンブル依存症で、負けるたびに借金を重ねていく父。
今なら「それって頭部外傷の影響かもね」って思えるし、どこかで治療を受けさせることもできたかもしれない。けど、当時は「事故で人が変わった」という認識で、なすすべ無しだったんです。だから、母は父の借金返済のためにずっと身を粉にして働いてました。
そんなわけで、小学生のころから母の代わりに家事をしたり、弟妹の世話をするのが当たり前という感じで、私は今でいうヤングケアラーでした。
とはいっても、まだ子どもなので笑、
「友達と遊園地行きたい!」「習い事したい!」なんて気持ちも当然ありました。
でも、小学4年生の時「○○ちゃんと遊園地行きたい!」って言ったら、母がすごく悲しそうな顔をして、こう言ったんですね。
「ごめんね、行かせてあげたいけどお金が出せないから…」
私はその顔を見て、はっとしました。
「私がやりたいことを言ったら、親が悲しむんだ」って。
それからは親に負担をかけまいと、やりたいことは胸にしまって、こっそりあきらめちゃう子になりました。
そんな私の心の支えとなってくれていたのが愛犬でした。
情にもろい母が「子犬の譲渡会」で心をわしづかみにされ、そのまま家族となった愛犬たち。
嬉しいときも、悲しいときも、いつだって寄り添ってくれたのが、本当に嬉しかったなぁ。
だからこそ、
嬉しいときは「嬉しいね!」って一緒に大喜びして、
悲しいときは「大丈夫だよ」って寄り添える。
そんなかかわりができるコーチングにひかれたのかなって思います。
【学生時代】紆余曲折しながらやりたいことを発見
「悪いけど、私立の高校はあきらめて」
「大学には行かせてあげられないと思う」
そういわれて育った私は、高校受験ではすごく葛藤がありました。
将来なりたいものが決まっていたわけじゃないけど、「獣医さんになりたいな~」とか、「歴史の研究家になりたいな~」とぼんやり思ってはいたんですね。
でも進学は無理だし、何を目指せばいいのかわからなくなっていた頃、頻繁にクローズアップされるようになった”バイオテクノロジー(略してバイテク)”という言葉。
なんか、カッコいいし面白そう!
え、高専だったら学費も安くて、5年で技術者の道が付くの?
これなら行かせてもらえそう!と、親を口説き、晴れて高専生に。
あんまり知名度がないかもしれないんですが、高専っていうのは 「高等専門学校」の略称で、5年間一貫教育でエンジニアを育成する国の教育機関なんです。ロボットコンテスト(ロボコン)なんかがわりと有名ですね。
でも…、入学してからがほんとに大変でした。
軽い興味だけで予備知識なしに入ったはいいものの、いきなり工学に関する専門的な知識や技術を山ほど学ぶことになったから。苦手な分野(数学系や電気系がとにかくダメでした…)の試験前日の夢をいまだに見るくらいにはトラウマになってます笑
その分、4,5年生でがっつり取り組んだ卒業研究は楽しかったですね~!
他の研究室からは「地獄のラボ」と言われるくらい忙しかったんですが、全然苦にならないくらい没頭してました。
好きなこと、興味のあることって、ほっといても真剣に取り組むんですよね。
ちなみに私はリンゴ酸脱水素酵素という酵素の精製・分析をやってました。なつかしいなぁ。
そんな経験もあって、卒後は研究の仕事ができる大学の基礎医学研究室へ就職。5年くらい神経細胞の発達の実験をしていましたね。
興味のあるテーマではあったし、ゆくゆくは人の役に立つことだから‥‥と思いながらも、なんかしっくりこないな、という気持ちもありました。
そんな時に、大きな転機が訪れます。
父が骨折で入院したとき、実は膠原病という病気を発症していたことが判明、しばらく入院することになったんです。
その時、付き添いで何度か父のリハビリを見学したんですが、病気や障害があっても”その人らしいあり方”を決してあきらめることなくサポートできる、作業療法にとても心を動かされました。
たとえ医者が「もう治療法はありません」とさじを投げたとしても、作業療法にはやれることがまだ、たくさんある。
できないことだけじゃなく、できることにもフォーカスして「これ、どう活かす?」を考えていける。
そんなところがとても魅力に感じられて、その年には研究職を辞め、作業療法士の養成校を目指しました。
とにかく親に負担はかけられない!と学費の安い養成校に入学し、奨学金2つを獲得。
「もう後戻りできない!」って必死だったのもありますが笑、それ以上に勉強も実習も楽しくて仕方がなかったですね。
子どもと関わる仕事がしたかったので、卒業後は絶対に小児のリハビリをやろう!と決めてました。
でも、卒業前に父が突然亡くなり、土壇場で別の進路を選ぶことにしたんです。
父には「なんで、ギャンブルなんかするんだろう」「私たちのこと、大事じゃないのかな」って思ったりして、強く反発していた時期もありました。
でも、父のことも、もっと理解してあげられたらよかった…という気持ちになったんです。
そんな罪滅ぼしではないですが、成人のリハビリに携わろうという気持ちになり、既に決まっていた小児の仕事を断って、身体障害の分野へ進みました。
【仕事の始まり】後悔からの出発
作業療法士として総合病院に就職し、二度目の社会人生活もスタート!という矢先、母が突然倒れて、そのまま帰らぬ人になりました。
苦労ばかりだった母に親孝行していこう!
そう弟妹と話し合ったばかりだったのに。目の前が真っ暗になりました。
もっと感謝を伝えればよかった。もっと幸せを感じてもらいたかった。
そんな後悔ばかりしていましたね。
母との別れを通して、
今日この命があることって当たり前じゃないんだな。
もしかしたら明日会えなくなってしまう人もいるかもしれない。
だったら、もう後悔したくないから、大切な人を笑顔にしていきたい。
そんな風に思うようにもなりました。
それから、ゆっくりではあるけれど日常を取り戻し、仕事の方でも少しずつ経験を積んでいきました。
リハビリの仕事って、ありがたいことに毎回「ありがとう」って言ってもらえる仕事なんです。
患者さんの長い人生の中からすると、私が関われるのってほんの一瞬かもしれないけど、病気や障害と折り合いをつけながら「未来」のために、今できることを一緒に考えていける。
そんなことがとても嬉しかったんですね。
作業療法士、という仕事に誇りを持っていたし、ずっと続けたいとも思っていました。
【子育て】想定外の連続
就職して10年目、職場の後輩と結婚。すぐに二人の子供に恵まれました。
長男は予定より1か月早く生まれたので体力が低い子でした。そのせいか母乳やミルクもあまり飲めず、お座りなどの動作獲得にも、とても時間がかかっていました。
でも、医師からは「原因不明の筋力の弱さ」としか言われなかったので、「そのうちよくなるのかなぁ…」と、心配しながらも見守ることしかできなかったんですね。
今でこそ、難病のせいだったんだとわかりますが、当時は「高齢出産のせいかも」「新生児の時に栄養が足りなかったからかも」と、くよくよ悩んでいました。
そして、長男が1歳半になったころ、次男が誕生します。
妊娠8か月で足から出てこようとしたチャレンジャーな次男は、緊急帝王切開で1500gに満たない体重で取り上げられ、すぐ保育器へ。
たくさんのチューブや電極につながれた小さなわが子を、この手に抱っこすることもできず、とても辛かったですね。
次男より一足先に退院してからは、毎日1時間以上かけてNICUに通い、家では2時間ごとの搾乳、長男のお世話と、妊娠中は考えもしなかったような生活が始まりました。
幸い体は順調に大きくなり呼吸器も外れたのですが、気管軟化症であることが分かり、「これしかない」と言われ気管切開のオペを決意。次男は「医療的ケア児」と呼ばれる子になりました。
その後、退院の道が付きましたが、赤ちゃんと離れて過ごす10か月間は、本当に長かった。
一番かわいい時期を、そして一番母親を必要とするであろう時期を一緒に過ごせなかった。この体験は私にとって大きな心の傷にもなりました。
でも、それと同時に、私たちをサポートしてくれた医療従事者の方にたくさん助けられ、救われてきたのも事実。
医療チームのメンバーといい関係を築けていたおかげで、何年たっても病院に行くたび顔を見に来てくれたり、気軽に近況を報告しあったりできる関係にあります。
そんなコミュニケーションのコツなんかも、ぜひこれからシェアしていきたいですね♬
【コーチングとの出会い】始まりは苦痛回避
退院後は、家族みんなでずっと一緒に過ごせるという喜びと、命を守るために片時も目を離せないという緊張感がないまぜになった日々。
毎日分刻みで365日24時間の看護が必要な状態。
当然、仕事などできるはずもなく、私は職場を退職することになりました。
結婚前は「子どもは3人欲しい」とも思っていたのですが、どう考えても不可能でした。
その数年後には、長男・次男ともに国指定の難病を抱えていることも発覚。
「理想の出産」「理想の育児」「理想のキャリア」を泣く泣く手放すところからスタートした育児は、想定外の連続だらけで、壁にぶつかっては自分を責めてばかりの毎日でした。
そんな私が子どもたちの病気を通して痛切に感じたのが、「健康」の定義から外れた人にとっての選択肢の少なさです。
親からすれば、目の前のわが子は世界にたった一人の大事な存在。
なのに「難病児」「医療的ケア児」という名前で呼ばれたとたんに、たくさんの制限がかかってくるんです。
「医療的ケア児はリスクが高いから」って話も聞かずに断られたり、
「難病があるからって、特別扱いはできませんよ」って取り合ってもらえなかったり。
そのたびに私は、嫌だ!子どもの可能性を絶対に奪われたくない!
子どもにも、病気を理由にいろんなことをあきらめてほしくない!って、
ものすごく焦燥感というか、危機感を感じていたんです。
そんなこともあって、わが子が「難病児」「医療的ケア児」と言われることが嫌だった時期もありました。
病気や障害はこの子の一面にしか過ぎない。それが全てのように言わないで。
難病の子、じゃなくて、夢や希望も叶えていける一人の子どもなんだってことを、私自身も、子どももゆるぎなく信じられるようになりたかったんです。
私には、なぜかそのための答えがコーチングの中にあるような気がして、コーチングを学び始めました。
そうすると、すっごく楽になっていけたんですね。
なんだ、私が勝手に問題を大きくしてたんだなぁって気づいたり、ミスコミュニケーションで本当の思いが伝わらなくなっていたんだなって気づいたり。
自分の心なのに、新たな発見だらけ。
でも、そうやって気づいたからこそ、少しずつ変わることができたんですよね。
コーチングとの出会いが私にとって大きな転機となりました。
【今ここから】未来は自分で選択できる!
子どもたちは日々成長していきます。
そんななかで、いろいろな「できないこと」に直面したり、お友達との違いに悩んだりするようにもなりましたが、
私はいつでも一番の理解者、一番の味方でいようと決めて関わってきました。
そうすると、ありがたいことに、子どもたちと関わって下さった教育関係者や医療従事者の方から
「お子さんへの関わり方が素晴らしくて、とても勉強になります」
「そんなに前向きになれる方法をどこで身に着けたんですか?」
などのお声を頂戴するようになりました。
その答えになるかはわかりませんが、
継続してコーチングを学び、トレーニングを重ね、そして実践していくなかで、
”過去や生い立ちがどうであれ、今ここからの未来は自分で選択できる!”
ということが心から納得できた瞬間がありました。
その時から、自分の未来も、子どもの未来もゆるぎなく信じられるようになったからかなぁと思います。
現在はこれまでの経験を活かし【難病とともに生きる子の心のサポーター】として親子の心のサポートやコーチングを学べる講座開催などの活動を行っています。
最後になりますが、難病のお子さんや、そのご家族の皆さん。
一人で頑張らなくても大丈夫。一緒に歩んでいきましょう。
私も一人では、ここまで来れませんでした。
でも、重い荷物も二人で持てば半分の重さになりますし、
たくさんの人数で持てば、心も体も、もっと軽くなります。
山だって、谷だって、みんなで一緒に楽しみながらだったら、ピクニックのように軽い気持ちで超えていけます。
難病のお子さんのためのお話会なども企画していますので、是非お越しください♪
お話しできるのを心から楽しみにしています。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします^^
長~い自己紹介になってしまいましたが、最後まで読んでくださり本当にありがとうございます♬
國友みゆきでした